エンジョイ!     強迫神経症

楽しい強迫神経症との付き合い方

強迫良かったこと・・・・・

強迫良かったことを考えてみたけどもホント言うと良いことなんて何にもない(笑)

ただただ生き辛い障害でしかない。

自分本来のポジティブシンキングをフル稼働させても強迫の威力は手ごわい。

わかりやすく言うと42.195キロフルマラソンするのを20キロくらいの荷物を持って走ってる、そんな感覚だ。いいタイムが出るわけがない。

それに付け加えての完全主義からくる双極性障害。自分に出来ないことはないと考える

躁状態と生きている価値もないという両極を行ったり来たりする。

そこに付け加えて以前はパニック障害もプラスされていた。突然心臓発作のような動悸に見舞われていた。

自分でもこの状態でなんとかできる限りの社会的な生活が営めているのは奇跡的だと思いながらもこんな状態で終わる自分ではないと思う気力だけでなんとか生きている。

きっとなんの精神障害も持ってない友人達からすると自分は怠けているだけに見えるらしい。自分的にはそういう障害を決して言い訳にしたくはないから「ダメな人間」を演じてしまう。頭の中で思ってることを相手に伝えることよりも怠けてるダメな人間だという方が相手には納得してもらい易いからだ。

友人から見て下の人間だということで相手に優越感を感じてもらえればいいというサービス精神などは友人も所詮見抜いていてそれでいてけれど昔からの友人は自分のそういうことをも見抜いていて俺が本当の力を出し切ることを期待してくれている。

それが真の友情というものだ。自分はその友情に応えたい。何が自分を形にするかはいまだわからないけども絶対に未だに仲良くてくださる人たちのために自分は人の役に立てる何物かになりたい・・・・死にたくなるほど辛いけど死にたい人を救える人になりたい、そんなことを思う夜。

 

強迫良かったこと③

とにかく細かいことが気になるので文字校正が得意。

広告の制作会社に2度所属していた時があるのですがとにかくみんなが気付かないような間違いに気付くので重宝されました。今でもその癖が抜けなくて普通に発売されてる雑誌の文章の中から校正をまぬがれてそのまま出てしまったミスを発見することがあります。何の得にもなってないけどw

強迫で良かったこと②


強迫性障害の症状は強迫観念と強迫行動とに分けられるのだが観念の方は考えたくもない考えが自分の意思とは関係なくとめどなく思い浮かぶつーやつで強迫行動はその考えたくない考えから起こるだろう不幸を回避するための意味の無い行動なわけなんだがとにかく他人から見ると意味不明の行動だからこっそりやってる訳だが見つかった時は超恥ずかしい。

「強迫あるある①」のドアに知らない誰かからラクガキされているというのは実際今も自分が持ってる強迫観念であり、別に自分自身が誰かに恨まれてる実情なんてあるわけもないんだが(下の階の人間は生活音うるさいと思ってるかもだが)これには実は原因になるトラウマがある。 まだ若い頃だ、21の時。自分のその頃住んでた部屋はバイトの職場から近く、そこで出来た仲間たちのいい溜まり場になってそこでみんなが寝起きし、次の日バイト先に一緒に行くような感じになっていた。両隣に部屋があることなど忘れたかのように酔い狂い、皆が爆笑し朝まで過ごしてはいたが苦情が入らないってことは大丈夫なんだろうという、俺独自の楽観的な考えで何も気にせず過ごしてたある日(ちなみに今でこそ鍵締めが気になる俺だがその頃は部屋に盗まれるものもないという意識で部屋の鍵すらかけてなかった)ポストに果し状のような長い手紙が入っており、

「知り合いの暴走族を差し向ける」旨

が 書かれていた。

大反省である。

まぁそれからドアに暴走族が書くような

「死ね」などのスプレーによるラクガキが

書かれたことがある訳では無いのだが部屋に入ってしばらくすると誰かがラクガキして帰った気がして気になるのだ。多分俺が長嶋一茂だったら江角マキコのマネージャーが壁に「バカ息子」と書いた瞬間を現行犯逮捕できただろうされ。

 

だから人にバレないようにチラチラとドアを開けて壁に落書きがないのを確かめては締めるのを繰り返していたのだが前に隣に住んでた大学生に「毎回ガタガタ何してんですか?!」と若干キレ気味に注意された時は恥ずかしくて仕方なかった。それから直ぐにその大学生が引っ越してくれたのがせめてもの救いだったが。

(ちなみに部屋に来客がいる時には全く気にならないのも不思議なんだが)

 

でだ、この強迫観念と強迫行動が何を自分に与えてくれたのかを有益に考えるなら

「パターン化され習慣化されたものを初志貫徹する行動力」だ。

それはストイックとも言い換えられる。

何せ普段から病気で頭に思いついたバカバカしい起こりもしない結果を回避するために何かしらの意味の無い行動を行わずにいられないところに、目標が出来た時にはちゃんとした結果が出るかもしれない考えに基づいた意味のある行動が習慣として付け加わるだけなのだから。

意味の無いことをずっとしてたら辛いだけだが

意味のあることをしていても辛くないから

いくらでもやっていられるのだ。

だから過去にもダイエットを始めたら5ヶ月で一気に34キロ痩せたし、成功することはなかったがお笑いをやろうと思ったら事務所に所属するとこまではやったし、自分の想像するようなAVを作りたいと思ったら何としてでもAVの制作会社に潜り込んで自分の立てた企画だけはやって辞めた。この人と友達になりたいと思ったら相手が例え有名人でも声をかけるしなんの面識のない人達の飲み会にも参加する。このチャンスを逃したくないと思うと変なアドレナリンが出て貫徹してしまうのだ。(まぁあとから後悔して次の一手が出ないことも多いのだが。)

反省や後悔の気持ちが強いのが自分がイマイチ成長出来ない原因なのは自覚しているので今後はそこを意識してこの初志貫徹の恩恵を受けたいと思う。

 

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強迫で良かったこと①


まず、とにかく人の落し物やなくしもの、お金、携帯、などなど様々なものを拾う機会が恐ろしく多い。それもそのはずだ。自分自身は大して金目のものなど持ち歩いていないくせに「サイフ」を落とすことを恐ろしく心配しているからだ。

過去を思い返すと小学校6年の夏休みの学校でのキャンプに1人500円持って参加する時にポケットに入れた500円札を落としたのと22歳の時に人数合わせで呼ばれた合コンの前、初めてしたパチンコで五万勝ってカッコつけて全員の二次会のカラオケ代を払おうと宣言して財布ごと落としてたことに気がつき、立場が逆転、泣く泣く奢ってもらった時くらいしかサイフなんて落としたことない。(わすれておいてくることはよくあるが)

ようは浮かれてる時にサイフが落ちるくらいなんだが気になってしょうがないのだ。

 

サイフを落としたら免許証からプライバシーが読み取られ、カードは悪用され、などなど考えなくていいようなストレスに支配されるのが嫌なのだ。

 

だからサイフを落としてないか、ポケットに財布の感覚があっても立ち去った場所を確認する。自分がまだ歩いてない道でも飛び出して落としてないか(あるわけねぇ、それは分かってるw)手前の地面を見ながら歩く。

 

そりゃ人の落し物見つけちゃうよねw

 

だからおのず感謝されることも多くなる。

 

たとえば、

真夏の花火大会の時なんかのバカップルなんかは、綺麗な花火とお互いの顔しか見てなくて、このあとラブホでどんな体位しようか、なんてことしか考えてないから、さて、家に友達のとこに泊まるからって電話しようとしたら彼女の方のスマホがない!なんてことによくなる。

こちとら花火なんか見に行っても綺麗な花火と同時に大して中身の入ってないサイフを気にしてるわけだ。

邦題タイトルつけるなら

「打ち上げ花火、上から見るか、

下の落ちてもないサイフ、ずっと気にするか」

だ。

なもんだからバカップルの女の子のスマホの着信音を花火の客の歓声や花火の音の中でも聞き逃さず発見してしまう。

 

「ありがとうございます!今から取りに行きます!」

 

普段なら多分話すことの無いようなマイルドヤンキーの柄の悪いお兄ちゃん(彼氏)にすごくキラキラした目で感謝されるのは決していやなことでは無い。(まぁキラキラしてるのはこの後のラブホで出すギラギラが溢れ漏れだしてるだけなんだろうがw)

まぁそういうところから普段接しない人達との出会いも生まれてくるから

「下を向いて歩こう」

っていう強迫も捨てたもんじゃないのかもと今は振り返って思う。

 

けど難点があるとしたら「サイフ」を気にしすぎてサイフよりも貴重なものの入ったサイフ以外の大きな荷物丸ごとを景色と同化してしまって見落として忘れてくることはよくあるw 

 

そっちの方が余程気にした方がいいだろうになんで財布だけこんだけ気になるのか自分でも意味不明だ。ちなみに札よりも小銭を落としてないかの方が気になるのも不思議だw

 

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強迫良いこと

まぁそんな厄介な病気「強迫性障害」。

OCD(Obsessive–compulsive disorder、ようはしつこい強迫的な考えに支配された混乱状態の意味)なんて気取った英語の略名なんかもあったりするがカッコイイ呼び方をしても暴走族は珍走団なわけで本質に対する考え方を変えないことには何も変化はない。自分は強迫性障害でかなりの心配性ではあるし、鬱的な病状も途中から誘発されたから暗い時も多々あるがありがたいことに従来の性格は「社交的」かつ「恐ろしい程にポジティブシンキング」。だからこそ誰とでも仲良くなってなんでも引き受けちゃうから予期しないアクシデントに遭遇しちゃったり、大概のことは解決出来ると思って避けなくて突っ込むから危機的状況に遭遇する可能性も高めてるのだがw

そう考えると自分にとっての強迫性障害

こういう「鉄砲玉的な本来の資質」に

「命を落とさない為のかなりの重い慎重性」を後天的に神様がつけたオプションなのかなと考えられなくもない。

確かに思い返せばこれがなかったら三回くらい死んでる場面があったw

次回からはそんな「強迫性障害で良かった」エピソードを書き出していこうと思う。

強迫性障害を楽しむ②

まぁしかしである。そんな状況や過去を悔やんで後ろ向きになっていても仕方ないのだ。別にこの先病気が軽減することはあれ完治することもないだろうがどうせならこれを楽しもう、というのがこのブログの主題である。だからわざわざ初回8回で面白おかしくあるあるを書き出し、プラスになったことは何かを敢えて大袈裟におかしく添えて書いてみたわけなのだがw

今後はまたそういう面白いあるあるを思いついたら書き記しつつ、主に文章で日々強迫性障害を持つ自分がどんなオリジナルな発想をしているかを発表する場にして行きたいと思う。

強迫性障害を楽しむ

ということで,前回まで8回イラストを交えてお送りしてきた「エンジョイ、強迫神経症」なのだけど
今現在強迫神経症はどうやら「強迫性障害」って言うのが正式名称らしい。けども昔からの患者の自分としては「強迫神経症」という名前の方が親しみやすいのでタイトルはこのままにしておく。
もうかれこれ強迫神経症(以下強迫)とはどれくらいの付き合いになるだろうか。小6の時からだからもうかれこれ32年くらいか。気がついたらなってたとかではなくてちゃんとなった瞬間を記憶している。当時自分はクラスメイトの女の子に初めての恋をしていて、と同時に男子トイレの清掃当番でもあった。そしてある日ふと思ったのである。「トイレ掃除した手であの子に触れることがあったらきっと嫌だろ」なと。
初恋の気持ちも当たり前に終わって四半世紀以上経つけどもあの瞬間に感じた違和感だけが今も引き続き自分を支配している。
まぁわかりやすく言ってイラストでも紹介したが厄介な病気である。あるあるを描きだそうとしたが結局2番「最悪の事態を想像してしまう」(強迫観念)に終始出来てしまう内容なのだ。しかもそんな大変な事はそうそう起きないにも関わらずそれを回避する根拠の無い行動(強迫行為)をしないで済ませるというコントロールを脳が自分で司れないところが恐ろしい。そしてそれがいつか習慣化してしまう。よくこの病気の話を知人に話すと
「よく今まで普通に仕事したりして生きてこれたね」
と言われることが多い。多分自分で言うのもなんだがこの病気でなければもっと生きやすいし、今以上に素晴らしい仕事などにも従事して活躍出来てたはずだと思う。まぁわかりやすく言えば重い足枷をずっと付けて生活したり仕事してきた訳だ。思うような実力や生きやすい生き方が出来るはずがない。
(ちと話が長いので次回に続く)